こんにちは、アキラです。
チェンソーマン、面白い。なのに読み終わったあとに「元気」は残らない。
僕が引っかかったのは、暴力でもグロでもなくて――主人公デンジの希望のサイズが、妙に小さいことだった。
パンにバター。ジャム。
「それが夢」って、言われても。
こっちはもう少し“分かりやすい光”を期待して読んでいる。でも作品は、それを出さない。わざと外してくる。
だから腹が立つ。
でも、ページは閉じられない。
この記事では、チェンソーマンの「共感できない希望」について、僕自身がどこで戸惑い、どこで引っかかったのかだけを書く。
※原作第1部まで読了。ネタバレは極力避けつつ、「希望の扱い」に絞って書きます。
チェンソーマンのあらすじを「希望が小さすぎる視点」で整理する

チェンソーマンの主人公・デンジは、いわゆる「どん底」から始まる。
借金。貧困。臓器を売る話。
ポチタと一緒に悪魔を狩って、その日をしのぐ生活。
ここまでは、正直よくある不幸スタートに見える。
でもデンジの“夢”が出てきた瞬間、僕はページを止めた。
「普通に暮らしたい」。
デンジの“夢”とは、パンにバターを塗って食べること。
そのシーンを読んだのは、夜の0時過ぎだった。
ベッドの上でスマホを持っていて、思わず天井を見た。
「いや、それって希望って言うには小さすぎないか?」
正直、そう思った。
ここ、かなり戸惑った。
でも厄介なのは、作品がそれを一切笑わないことだ。
マキマに頭を撫でられて、「犬みたいに従う」ことで居場所をもらったデンジが、本気でそれをありがたがっている。
あの場面も、僕は少し戸惑った。
そんな扱いで満足するのかよ、と。
でも同時に、それが彼の現実なんだとも分かる。
パンにバターを塗れること。
誰かに頭を撫でられること。
それが到達点として真顔で提示される。
僕の生活感覚だと、それは“最低ライン”に近い。
だから共感しきれない。
でもデンジは、本気だ。
ここが、この物語で感じた最初のズレだった。
なぜ「共感できない希望」が、こんなにも刺さるのか

パンにバター。
あれを夢として読んだとき、正直ちょっと引いた。
でも、もっと引いた場面がある。
デンジがずっと言っていた「胸を揉みたい」という願い。それが本当に叶った瞬間だ。
あのときのデンジ、思っていたより何も感じていなかった。
達成感でも歓喜でもなく、「あれ?」みたいな顔をしている。
僕はそこが一番刺さった。
あれだけ欲しがっていたのに、いざ叶ったら、想像していたほどの何かは起きない。
これ、わりと残酷だ。
希望が小さいと、誤魔化しが効かない
「世界を救う」みたいな目標なら、途中で多少ご都合主義があっても、物語として成立する。
でもデンジの願いは小さすぎる。
腹いっぱい食べたい。
ちょっといい暮らしがしたい。
女の子に触れたい。
理想も大義もない。
だからこそ、叶った瞬間の空虚さも誤魔化せない。
ここ、たぶんこの作品のいちばん冷たいところだ。
共感できないのに、目が離せない理由
僕は物語に、「少し大きめの希望」を期待している。
現実よりちょっとだけ上。
少しだけ報われる未来。
でもチェンソーマンは、そこをくれない。
代わりに出てくるのは、生活の延長みたいな願いと、叶ったあとに残る妙な空白だ。
共感はしきれない。
でも、嘘はない。
だから否定もできない。
読んでいてずっと、「これでいいのか?」と考えさせられる。
そして気づく。
自分は、あれを本気の幸せとして受け取れるだろうか、と。
夢がしょぼいほど、奪われたときの痛みは大きくなる

チェンソーマンを読んでいて一番きつかったのは、大きな夢が壊れる瞬間じゃなかった。
アキが死んだ場面だ。
あそこ、僕はしばらくページを閉じた。
銃の悪魔との戦い。
でも実際に描かれているのは、雪合戦の回想だ。
子どものアキと弟が笑っている。
その裏で、現実のアキは撃たれている。
あの落差が、きつい。
アキの夢は世界平和でも英雄でもなかった。
家族を奪った悪魔を倒したい。それだけだ。
怒りも復讐も、ものすごく生活に近い。
だから、終わり方も生活サイズのまま終わる。
壮大な意味が語られないまま、ただ、いなくなる。
小さな日常は、物語の保険が効かない
多くの物語なら、仲間の死は主人公の覚醒につながる。
でもデンジは、すぐに強くならない。
むしろ壊れていく。
普通の朝が来て、ご飯を食べて、それでもアキはいない。
ここが残酷だ。
パンにバターを塗れることも、3人で飯を食べる日常も、ある日突然なくなる。
でも作品は、それを「意味のある犠牲」にはしない。
説明がないまま、次の朝が来る
なぜ失ったのか。
そこから何を学ぶのか。
はっきりとは語られない。
ページをめくると、普通に話は進む。
僕はここでも戸惑った。
こんな終わらせ方あるか?って。
でも同時に、現実もだいたいこうだと思った。
誰かがいなくなっても、朝は来るし、仕事はある。
小さい望みすら、あっさり潰してくる。
だから、この作品はきつい。
なぜ藤本タツキは「共感しやすい希望」を出さなかったのか

僕は途中から、ちょっと作者に腹が立っていた。
こんなに面白い構成を組めるなら、もっと読者が安心できる希望を出せたはずだ。
努力が報われる瞬間。
喪失が意味を持つ展開。
少しだけ未来が明るく見えるラスト。
やろうと思えば、絶対できるはずだ。
なのに藤本タツキは、それをやらない。
デンジの夢を、あえて拡大させない
普通の少年漫画なら、主人公の夢はだんだん大きくなる。
最初は小さくても、仲間ができて、世界を守る側に立っていく。
でもデンジは違う。
基本はずっと、生活の延長線上だ。
腹いっぱい食べたい。
好きな女の子に認められたい。
世界を救うことより、今日の居場所のほうが優先される。
ここ、わざとだと思う。
物語を盛り上げるために希望を拡大しない。
そのままのサイズで固定する。
読者の「物語への甘え」を切っている
僕は物語に、どこかで甘えている。
「最終的には意味がある」
「ちゃんと成長に変わる」
そう信じたい。
でもチェンソーマンは、僕のその保険を外す。
アキは戻らない。
パワーも戻らない。
ぽっかりと穴が開いたまま。生活は続く。
僕は最初、それを冷たいと思った。
でも今は、少し違う見方をしている。
藤本タツキは、「物語なら救われるはず」という期待を、一回壊したかったんじゃないか。
希望を大きくしないまま、こっちに突き返してくる。
――で、お前はそれをどうする?って。
それでも、この「共感できない希望」をどう受け取ればいいのか

チェンソーマンは、共感しやすいサイズの希望をくれない。
パンにバター。
それを本気の到達点として出してくる。
それに感動できなくても、何もおかしくない。
共感できないなら、まずそれを認めていい
「それは希望って呼べないだろ」と思ったなら、その反応は普通だ。共感できない人がいて当たり前。
第71話のデンジは、バカになることで戦っている
第71話で、デンジはふっと言う。
「知らなくていいこともあるし、バカになったほうが楽なこともある」
これ、逃げじゃないと思った。
人はすぐ隣の青い芝生を見る。僕もそうだ。もっと大きな夢、もっと分かりやすい光を欲しがる。
でもデンジは、最低ラインから始まって、他の人が嫌がる役目を引き受けて生きている。
だから隣を見ない。あえて知ろうとしない。バカのままでいる。
それぐらいじゃないと、やってられない。
全部を理解しなくてもいい
僕は第71話のあの台詞で、「あ、これでいいんだ」って一回だけ思えた。
分からないとこは分からないまま閉じていい。僕もそれを何度もやった。


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