ハイキューはなぜ人気?日向翔陽から見る昭和と令和の努力の違い

漫画レビュー
会社の昼休み、先輩がラーメンをすすりながら、ふとこんなことを言った。「最近オリンピック見てて思うんだけどさ」
「今の若いやつらって、負けても笑うじゃん」
「悔しくないのか?」そのとき僕は、うまく答えられなかった。
学生時代に部活をしていた僕は、漫画を読むときもつい「努力の描き方」が気になってしまう。だから先輩のあの一言を聞いたとき、帰りの電車の中で自然と一つの漫画の場面を思い出していた。『ハイキュー!!』週刊少年ジャンプで連載された、古舘春一のバレーボール漫画だ。コミックスは全45巻、累計発行部数は7000万部を超えている。人気漫画はいくらでもある。けれど、この作品がここまで長く読まれ続けている理由を考えていると、ある特徴が少しずつ見えてくる。この漫画は、ただ試合が面白いだけのスポーツ漫画ではない。日向翔陽という選手の行動を追っていくと、「努力」という言葉の見え方が少し変わってくる。僕が学生のころに見てきた部活の努力は、どちらかと言えば「耐える努力」だった。走る、繰り返す、怒られても我慢する。そういう練習を積み重ねて強くなる、という考え方だ。でも『ハイキュー!!』の中で描かれている努力は、それとは少し違う。試合の中で何が起きているのかを観察し、
自分に足りないものを理解し、
そして次のプレーを変えていく。日向翔陽という選手の行動を見ていると、そんな努力の形が少しずつ見えてくる。この記事では、日向翔陽のいくつかの場面を手がかりにしながら、

  • ハイキューはなぜ多くの読者に支持されているのか
  • この作品が描いている「努力」とは何なのか

先輩の疑問をヒントにしながら、僕なりに整理してみたい。

ハイキューはなぜ人気なのか ― 昭和の努力と令和の努力の違いを描いた漫画だから

ハイキュー 努力の形の違いを解説する考察記事イメージ

ハイキューがここまで多くの読者に支持されている理由を考えていくと、僕の中では一つの答えがかなりはっきりしてくる。それは、この漫画が「努力とは何か」という問いに対して、これまでのスポーツ漫画とは少し違う答えを見せてくれる作品だからだ。

昔の部活が信じていた努力

僕が学生だったころ、部活で語られていた努力のイメージはかなり共通していた。とにかく走り込みをする。何度も同じ練習を繰り返す。叱られても続ける。そうした厳しい練習に耐え続けることが努力であり、その先に強さがあると信じられていた。

もちろん、そのやり方が間違っていたとは思わない。実際に体力もつくし、基礎も身につくし、そうした練習を積み重ねて強くなったチームもたくさんある。ただ、当時の空気の中では、努力とはまず「耐えること」だった。苦しくても続けることそのものが努力の証明であり、その姿勢が評価される文化があったと思う。

ハイキューが見せたもう一つの努力

ところがハイキューを読み返していると、その努力の見え方が少し変わってくる。この漫画の主人公である日向翔陽は、単純に練習量を増やして強くなるわけではない。試合の中で何が起きているのかを観察し、自分に足りないものを理解し、そのたびにプレーを変えていく。

ブロックはどこを見て動いているのか。セッターはどこを見てトスを上げているのか。自分はどこに動けばチームの得点が生まれるのか。そうした仕組みを理解しながら、自分の役割を少しずつ更新していく。

つまりこの作品が描いている努力は、ただ耐える努力ではない。試合の中で起きていることを理解し、その理解をもとに自分のプレーを変えていく努力だ。僕にはそれが、これまでのスポーツ漫画とは少し違う「令和型の努力」に見える。

だから多くの読者に支持されている

ハイキューが面白いのは、この努力を言葉で説明するのではなく、試合の場面の中で読者に見せてくるところだ。速攻が生まれる場面、合宿でコートを観察する場面、そして「最強の囮」と呼ばれるプレー。それぞれの出来事を追っていくと、日向がどうやってバレーボールを理解していくのかが、自然と見えてくる。

だからこの漫画は、バレーボール経験者だけが楽しめる作品ではない。他の競技をやってきた人にも、これからスポーツを始めようとする人にも、「強くなるとはどういうことか」が伝わる。努力の仕組みそのものが見える物語になっているからだ。

そして実際に物語の中で起きている場面を追っていくと、その理由はさらに分かりやすくなる。日向翔陽がどのようにしてプレーの見え方を変え、自分の役割を理解していくのか。その過程を見ていくと、この漫画がなぜここまで多くの読者に支持されているのかが、自然と腑に落ちてくるはずだ。

変人速攻 ― 理解する努力の入口

ハイキュー 変人速攻が生まれた理由を解説するシーン

努力しているのに勝てない

日向翔陽は、中学時代にたった一度だけ公式戦に出ている。相手は北川第一中学。そしてコートの向こう側にいたのが、セッターの影山飛雄だった。

試合はほとんど何もできないまま終わる。日向のチームはボールに触れる機会すら少なく、体育館の床に座り込んだ日向は、悔しそうというより、どこか呆然としているように見える。

それでも帰り際、日向は影山にこう言う。

「次は勝つ」

この場面を読み返すたびに、僕には少し不思議な感覚が残る。というのも、このときの日向には、その言葉を裏付ける材料がほとんどないからだ。スパイクが決まったわけでもないし、試合の流れを変えるプレーがあったわけでもない。それでも彼は迷わずそう言う。

ここで一つの疑問が浮かぶ。

日向は努力していない選手ではない。ジャンプの練習もしているし、スパイクの練習もしている。それでも試合では、その努力がほとんど形になっていない。

努力しているのに、なぜ強くならないのだろう。

この疑問は、高校で影山と再会したあと、別の形で現れることになる。

変人速攻という奇妙な攻撃

烏野高校で同じチームになった二人は、最初こそ衝突ばかりしているが、練習試合の中でひとつの攻撃を生み出す。のちに「変人速攻」と呼ばれるプレーだ。

影山がトスを上げると同時に、日向が助走して跳ぶ。

日向はボールを見ていない。つまりボールの位置を自分で判断しているわけではなく、日向がやっているのは、ただ助走して跳び、腕を振ることだけだ。ボールの位置を合わせているのは影山のほうで、日向のタイミングに合わせて、絶妙なトスを上げている。

つまりこの攻撃は、日向がコートの状況を読んで決めているプレーではない。影山の精密なトスがあって初めて成立している攻撃だ。

この速攻は試合で決まり、周囲の選手たちは驚きながらこのプレーを「変人速攻」と呼ぶようになる。

このプレーは「完成」ではない

この速攻はたしかに強い。しかし、この時点で得点を成立させている中心は、日向自身の理解というより、影山の精密なトスにある。日向がコートの状況を読んで攻撃を作っているわけではなく、バレーボールそのものを理解しているプレーともまだ言い切れない。

こんなプレーをさせられたら、僕だったら少し心が折れると思う。自分はただ跳んで腕を振っているだけで、得点を作っているのはほとんどセッターだ。自分が試合を理解してプレーしている実感は、あまり持てないはずだからだ。

でも日向は違った。むしろ「バレーボールを理解する努力」の入口にしたんだ。

このプレーをきっかけに、日向は自分に足りないものに気づき始める。そしてその気づきが、新しい疑問につながっていく。ブロックはどこを見て動いているのか。セッターは何を見てトスを上げているのか。強い選手はコートのどこを見てプレーしているのか。

つまり日向は、自分に足りないものを理解するだけでなく、そこから先にある「プラスアルファの努力」を見つけ始めている。

ここから日向は、ただ練習を繰り返すだけではなく、試合そのものを観察し始める。

つまりハイキューは、速攻という派手なプレーの裏側で、もう一つの変化を描いている。

それは「努力の向き」が変わる瞬間だ。

ただ耐えて練習するのではなく、試合の仕組みを理解しようとする努力。この変化があるからこそ、日向のプレーはこのあと少しずつ変わっていく。

そしてその最初の大きなきっかけになるのが、次に訪れる合同合宿だった。

呼ばれなかった合宿 ― 日向が覚えた「観察する努力」

ハイキュー 合宿で観察する努力を学ぶ日向翔陽

変人速攻が決まったあとでも、日向翔陽の中には一つの引っかかりが残っていた。

あの攻撃は確かに得点になる。けれど、それは影山のトスがあって成立しているプレーでもある。自分がコートの状況を読んで攻撃を作っているわけではない。

点は取れているのに、バレーを分かっている感じがしない。

この違和感が、日向の次の行動につながっていく。

合宿に呼ばれたのは影山だった

その少しあと、県内の強豪校が集まる合同合宿が開かれる。烏野高校から呼ばれたのは一人だけで、セッターの影山飛雄だった。

中学時代から「天才セッター」と呼ばれていた影山が招集されること自体は自然な流れだ。トスの精度、試合の組み立て、状況判断の速さ。どれを見ても高校生の中では抜きん出ている。

一方で呼ばれなかった選手もいる。日向翔陽だ。

ジャンプ力はあるが、ブロックは弱い。レシーブもまだ安定していない。バレー歴も短い。冷静に考えれば、この選考はかなり妥当だと思う。もし僕が監督でも同じ判断をするはずだ。

ただ、このあと日向は少し変わった行動を取る。

呼ばれていないのに体育館へ来る

日向は、呼ばれていないはずの合宿の体育館に現れる。

もちろん練習に参加できるわけではない。そこで彼に与えられる役割はボール拾いだった。スパイク練習で弾かれたボールを拾い、サーブ練習で転がったボールを拾い、体育館の端から端まで走り続ける。

普通に考えれば、これは裏方の作業だ。選手としての成長とはあまり関係のない仕事に見える。

最初にこの場面を読んだとき、僕は少し笑ってしまった。呼ばれていない合宿にまで来てボール拾いをしているのだから、熱心というより変わった選手に見えたからだ。

けれど読み返していると、だんだん見え方が変わってくる。

日向はボールではなく「試合」を見ている

日向はボールを拾いながら、ずっとコートを見ている。

ただし彼が見ているのは、スパイクが決まった瞬間ではない。ブロックがどのタイミングで動くのか。セッターがどこを見てトスを上げるのか。レシーブはどの位置に入るのか。

つまりボールの行方ではなく、プレーが生まれる前の動きを見ている。

ここが、この場面の面白いところだと思う。

僕が学生のころに知っていた部活の努力は、とにかく体を動かすことだった。走る。繰り返す。我慢する。苦しい練習を続けること自体が努力で、その積み重ねが強さにつながると考えられていた。

だからボール拾いという役割も、基本的には「耐える時間」だと思っていた。とにかく走り回り、言われたことをこなす。それが努力の一種だと考えていたからだ。

でも日向の行動は少し違う。

彼はただ走り回っているわけではない。コートの中で何が起きているのかを観察している。強いチームの選手がどこを見るのか、どの瞬間に動くのか、どんな判断でプレーを選ぶのか。

つまり日向は、練習に参加していないのに試合を学んでいる。

この場面を読み返すたびに思うのは、ここにハイキューの面白さがはっきり表れているということだ。

昔のスポーツ漫画なら、努力はたいてい「練習量」で描かれる。誰よりも走る、誰よりも打つ、誰よりも耐える。

けれどハイキューは違う。

観察することそのものが努力として描かれている。

日向はコートに立っていない。スパイクも打っていない。それでも体育館の中でいちばん真剣に試合を見ているのは日向かもしれない。

ここが、僕にはとても印象的だった。

合宿のシーンで描かれている日向は、昭和のスポコン漫画の主人公とはかなり違う。もし昭和のスポコン漫画なら、合宿に呼ばれなかった主人公は山に籠って特訓を始めるはずだからだ。

そんな日向をみて僕は、「このチビかっこいいな!」と思ったんだ。

そして、その観察があとでプレーを変えていく。

この合宿は、日向がバレーボールを「分かり始める」時間なのだと思う。

最強の囮 ― 点を取らない努力が、試合を動かす

ハイキュー 最強の囮として試合を動かす日向翔陽

変人速攻が決まると、体育館がざわつく。ボールを見ないままジャンプしてスパイクが決まるのだから、見た目としてはかなり派手なプレーだ。初めて読む人なら、その場面で「日向すごいな」と感じると思う。実際、漫画の見せ場としても印象に残るシーンだ。

ただ僕がこの漫画で本当に面白いと思ったのは、その直後の場面だった。烏野高校の主将、澤村大地が日向に向かってこう言う。

「お前は最強の囮だ」

この言葉を読んだとき、僕は少し驚いた。スパイクを決めるエースではなく、「囮」という役割の選手がこんなにも格好よく描かれているスポーツ漫画を、僕はあまり知らないからだ。

スパイカーなのに「囮」と呼ばれる

バレーボールでスパイカーと言えば、普通は点を取る役割の選手だ。高く跳び、強いスパイクを打ち込み、チームの得点を増やす。多くのスポーツ漫画でも、スパイカーはエースとして描かれることが多い。

だから日向のようにジャンプ力を武器にする選手がいれば、普通は「エースになれ」と言われるはずだ。

ところが烏野のキャプテンは、日向をエースではなく「囮」と呼ぶ。

囮というのは、自分が点を取る選手ではない。相手のブロックを引きつけて、別のスパイカーが決めるための隙間を作る役割だ。つまり、自分が活躍するためではなく、チームが得点するために動く選手ということになる。

試合を見ていると意味が分かる

試合の流れを見ていると、この言葉の意味が少しずつ分かってくる。

影山がトスを上げる前から日向は助走に入り、相手ブロックの注意を引きつけるようにジャンプする。すると相手ブロックは日向に反応して動き、その瞬間に別のスパイカーの前に隙間が生まれる。そこへトスが上がり、スパイクが決まる。

点は入る。ただ、その得点は日向のスコアにはならない。

表面だけを見ると、日向は点を取っていない選手に見える。

でも試合を少し注意して見ていると、このプレーは日向の助走から始まっていることに気づく。もし日向が走らなければブロックは動かないし、ブロックが動かなければ隙間も生まれない。つまり得点のきっかけは、日向の動きにある。

努力の目的が変わる

ここまで読んできて、僕は少し面白いことに気づいた。

昔のスポーツ漫画の感覚で言えば、努力している選手は「結果」を求めるものだったと思う。たくさん練習したのだから、自分が決めたい。自分が活躍したい。そう思うのは自然なことだ。

でも日向は、この役割を嫌がらない。

自分がスパイクを決めなくても、チームが得点するならそれでいいという動きをしている。そして実際に、その動きによって試合の流れが変わっていく。

ここでようやく、第2章と第3章の場面がつながってくる。

変人速攻で感じた違和感。
そして合宿で覚えた観察。

日向はその経験を通して、試合の仕組みを少しずつ理解していった。そしてその理解が、この「囮」という役割の中で形になっていく。

つまりこのプレーは、ただ走っているだけではない。

試合を理解したうえで走っている。

ここで僕は、もう一つ面白いことに気づいた。

昔のスポーツ漫画にも「囮」という役割は出てくる。ただ、その囮は作戦として飛んでいることが多い。

でも日向の囮は少し違う。

日向は、どんな場面でも全力で助走に入る。そして、その助走にトスが上がらなかった瞬間こそが、「最強の囮」が生まれる瞬間でもある。

今の自分には、まだ力がない。ブロックもレシーブも完璧ではない。

それでも影山がトスを上げてくれることを信じて、自分にできることを全力でやり続ける。その動きが結果としてブロックを動かし、別のスパイカーの前にコースを作る。

つまり日向は、自分が主役になるためではなく、チームが得点するために走っている。

こういうプレーは、自分がヒーローになることを目指す昔のスポーツ漫画の主人公には、あまり見られない動きかもしれない。

この漫画では、スパイクを決めることだけが価値ではない。相手のブロックを動かすことも、試合を動かす一つの方法として描かれている。

そしてその動きの中心にいるのが、「最強の囮」と呼ばれる日向翔陽だ。

読み返していると、このプレーが妙に格好よく見えてくる。

スコアには残らない動きが、試合を変えているからだ。

そしてその姿こそが、ハイキューが描いている「令和型の努力」の象徴なのかもしれない。

ハイキューが人気の理由― 令和型の努力が読者に刺さるわけ

ハイキュー なぜ人気なのか 努力の形の変化を考察する記事イメージ

ここまで日向翔陽の場面を追いかけてきて、僕の中では一つの見え方がかなりはっきりしてきた。

ハイキューが多くの読者に支持されている理由は、単純に試合が面白いからではない。

この漫画は「努力の形の変化」を物語として見せている。

昭和の努力と、令和の努力

僕が学生だったころ、部活で使われていた「努力」という言葉はかなりシンプルだった。とにかく走る。繰り返す。怒られても続ける。

苦しい練習に耐え続けること自体が努力の証明で、その先に強さがあると考えられていた。

もちろん、その考え方が間違っているとは思わない。実際にそうやって強くなるチームもたくさんあった。

ただ、ハイキューを読んでいると、少し違う努力の形が見えてくる。

日向は、ただ練習量を増やして強くなるわけではない。

変人速攻で得点しても「まだ分かっていない」と気づき、合宿ではコートの外から試合を観察する。そして試合の流れを理解したうえで、「最強の囮」という役割を引き受ける。

つまりこの物語で描かれているのは、必殺技で強くなる物語ではない。

試合を理解することで、自分のプレーを変えていく努力だ。

だからこの漫画は多くの読者に刺さる

ここが、この漫画の面白いところだと思う。

ハイキューは、努力を「説明」で語らない。速攻、合宿、囮というプレーの中で、その形を読者に見せてくる。

だからバレーボール経験者は「試合ってこうやって動くよな」と共感できるし、他の競技をしている人にも「強くなるってこういうことか」と伝わる。

さらにスポーツ経験がない読者でも理解できる。

なぜならこの漫画は、技術の説明よりも「人がどう学び、どう変わっていくのか」を描いているからだ。

先輩の疑問の答え

ここまで考えていると、昼休みに先輩が言った言葉を思い出す。

「今の若いやつらって、負けても笑うじゃん。悔しくないのか?」

ハイキューを読み返していると、この問いの見え方が少し変わる。

悔しくないわけではない。

ただ、その悔しさの使い方が違う。

昔は、悔しさを我慢して耐えることが努力だったのかもしれない。でもこの漫画の中では、その悔しさをきっかけにして試合を見直し、自分のプレーを変えていく。

つまり、負けても笑っているように見えるのは、悔しさが消えたからではない。

次に勝つために、もう考え始めているからだ。

あのとき、先輩の疑問はたぶんもう消えていたのだと思う。

だから最後に、こんな一言が出た。

「あのチビ、格好いいな」

先輩は、日向の身長や派手なスパイクを見てそう言ったわけではない。

分からないところから始めて、観察し、理解し、自分の役割を引き受けながら前に進んでいく。

その姿そのものが格好よく見えたのだと思う。

ハイキューは、努力の形が変わる瞬間を描いた漫画なのかもしれない。

よくある質問

この記事を書いていると、ハイキューについてよく聞かれる疑問がいくつか思い浮かんだ。

「なぜこんなに人気があるのか?」
「スポーツ経験がなくても楽しめるのか?」
「他のスポーツ漫画と何が違うのか?」

ここでは、この記事の内容をもとに、僕なりの見方をまとめてみたい。

ハイキューはなぜこんなに人気があるの?

この記事を書きながら感じたのは、この漫画が「天才が勝つ物語」ではないということだ。

日向翔陽は最初から強い選手ではない。むしろ、変人速攻のときは自分が何をしているのかさえよく分かっていない。

それでも日向は、速攻で得点して満足することはない。合宿ではコートの外から試合を観察し、ブロックの動きやセッターの視線を追い続ける。そして試合を理解したうえで「最強の囮」という役割を引き受けていく。

つまりこの漫画が描いているのは、才能よりも「どうやって理解していくか」という過程だ。

僕には、それがこの作品の人気の理由に見える。
『ハイキュー!!』は、昭和型の「耐える努力」ではなく、令和型の「理解して変える努力」を物語として見せている漫画なのだと思う。

ハイキューは他のスポーツ漫画と何が違うの?

スポーツ漫画では、エースが試合を決める展開が多い。もちろんそれはそれで面白い。

でもハイキューでは、必ずしも得点する選手が主役とは限らない。

「最強の囮」という言葉が象徴的だと思う。日向は必ずしもスパイクを決める選手ではない。それでも彼が走ることでブロックが動き、別のスパイカーの前にコースが生まれる。

スコアには残らない動きが、試合を変えていく。

そんなプレーが格好よく見えるところが、この漫画の少し珍しいところだと思う。

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僕は漫画から人生のことを考えるのが好きだ。

ハイキューもそうだったけれど、ページをめくりながら、ふと自分の経験を思い出してしまう漫画がある。

もし同じような作品を探しているなら、この2つの記事も読んでみてほしい。

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努力の形は漫画ごとに違う。
でも、読んだあとに何か残る作品には、共通するものがあると僕は思っている。

参考情報

この記事で触れている作品情報は、以下の公式情報および出版社情報を参考にしています。

※発行部数・作品情報は出版社および公式サイトの公開情報を参照しています。

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